敗戦72周年を迎えて

   

敗戦72周年を迎えて (駄長文となりました。ごめんなさい。)

72年前の今日、アメリカ帝国主義が主導権を持つ帝国主義諸国と日本帝国主義と同盟するドイツイタリアの軍事的衝突として始まった戦争は大日本帝国すなわち日本帝国主義の無条件降伏=敗戦となって集結した。今日この日を日本の国民だけでなく日本とアジアそして全世界の民衆は祝うべきであると同時に、アメリカ帝国主義の勝利の日として帝国主義への闘いと戦争そのものを歴史から抹殺するための決意の日にしなければならない。

72周年を迎えた今、日本の政治的局面を一言でいうのならこの残忍な第二次世界大戦、すなわち帝国主義戦争についてその戦争を主導した指導者たちの罪を曖昧にし再び軍事力で日本の国益を主張する勢力すなわち戦前回帰主義勢力が跋扈し欠けている時代。私たちは戦前回帰勢力が日本の政治の舞台に急速に登場し、いわんや跋扈し始めていることを問題にしなければならない。それは、72年間の戦争に反対し続けてきた戦争の直接被害者、それは左右の思想を問わないすべての人々によって営々脈々と続けられてきた反戦運動の生物学的魂の炎の終焉と時期を一にしていることは偶然ではない。

直接的な戦争の惨禍とそれによる被害は日本とアジアの国民に禍々しい記憶、耐えがたい屈辱と悲惨な悲しみ苦痛を与えてきた。そのことは思想の内容に問わず日本国民を戦争から遠ざける大きな支柱となって現実の生物体として人として戦争に反対する物理的力となってその反戦の魂=思想をこの世界に現実化・実体化させてきた。それは戦争で被害者としてあるいは加害者の手先となって死んでいった人々の遺志も含んでいる。

このような潮流が年月の流れのなかで必然的に終わりを迎えなければならない中で、日本の反戦運動は新しい飛躍の時を迎えなければならない時期に直面している。すなわち直接悲しみ痛み苦しみとは別のもの、すなわち「反戦思想」をよりどころとした新しい基軸である。反戦思想を左右の思想の上に立つ思想として日本の民衆の共通の文化的資産として確立しなければならない。

戦争犯罪人に対する人民・民衆による断罪が行われなかったことこそが、この敗戦記念日に我々がもう一度再確認しなければならないことでもある。そしてこのことは、同時に、我々がまだ、戦争犯罪人を断罪する権利を留保していることも意味する。正当な民衆裁判によって戦争犯罪人を断罪していないことは、その思想的相続人達を民衆法廷で断罪する権利を行使する権利の継続を意味する。闘いは終わっていない。敗北もしていない。我々がその意思を捨てない限り。

第二次世界大戦、中国侵略戦争、アジアの植民略奪戦争をアジアの解放戦争と位置付ける愚かな思想がもう一度主張され、思想論壇で大手をふって歩いている。その主要な内容は、「軍事的暴力的手段」による抑圧を植民地主義として曲解する駄論に過ぎない。帝国主義的・経済的支配の補助的手段である植民地主義は軍事力の行使や政治的支配の有無を問題としない。日本は欧米的奴隷主義的植民地主義に対して併合主義的・融和的植民地主義によるアジア周辺国諸国民の権利の略奪を進め、それが実現できないところでは更に先取りの「新植民主義的」つまり対象国の政治的独立を前提とした経済支配をめざしたが、戦前にそれがとん挫し、欧米帝国主義と軍事的衝突にいたった。

後発の資本主義であった日本の国家体制は事実上「絶対主義」であった。すなわち脆弱な封建階級=地主階級と資本家階級が絶対主義権力、すなわち天皇制・大日本帝国政府をいただき翼賛することによって明治以降生まれながらにして侵略主義的な拡張政策をとってきた。むしろそのような侵略主義的な略奪による原資の蓄積が日本の重工業と国力の蓄積の原動力となりその略奪資産を国家が恐るべき低コストで資本家たちに提供することで財閥を形成し膨大な資産をそこに集中しながら成長してきた。日本の侵略主義と財閥の成長主義・生き残り戦略は過去も現在も不可分一体の国家主義となっている。

前近代的な支配制度を包含した日本の政治体制は、残忍な軍事戦略としてファシズム的絶対服従主義軍隊を誕生させた。政治支配体制もそれに準じた。フィードバックのない上位下達型の政治統治システムはもちろん現実を正しく把握する能力を著しく欠いたことはいうまでもない。320万の日本の兵士・軍属の7割以上が戦闘ではなく病死・餓死の別の悲惨な末路、無策と無能による死を迎えた。このことは戦前の日本帝国主義の無能な指導者の犯罪と同じ程度に特筆し歴史の中で強調さればければならないことでもある。それを礼賛する愚か者どものためにも。

帝国主義戦争が一方の側であるアメリカと連合国によって余儀なくされたという主張がある。これほどのみっともない泣き言を耳にすることを私は予想していなかった。単なる泣き言に過ぎない。政治の世界で相手に余儀なくされたということの言い訳としては最低以下でもある。ばからしくもある。脳みその思考能力を疑うだけである。戦争を論じる場合その政治的手腕のあれこれを論じることはほとんど意味はない。その「目的」こそ論じられるべきである。誰が何のために戦争を始めたか。そのことを曖昧にするための戦前回帰主義者の駄論中の駄論は、連合国あるいはソ連にそそのかされて戦争を始めたという論理だ。まるで日本の戦争を始めた指導者たちには戦争をやる意思がなかったかのような駄論だ。聞くにあたいしない駄論が堂々と主張されている今、我々はこういわければならない。「愚か者め」。

今日戦前回帰勢力の復活は日本経済と世界経済が冷戦後において新しい世界秩序の構築を模索している中で日本の資本主義諸国の中での劣後した地位の中での焦燥感の中で進んでいっている。ソビエトとの地理的対決地点であった日本には冷戦時代特別な役割があった。アメリカの冷戦戦時経済の継続の中で、アメリカとの経済的正面衝突ではなく補完的協力的役割が前面にでた数十年の役割が冷戦の終結ともに消失し、アメリカ帝国主義との経済的対立が顕在化する時代の到来。超大国・ソビエトに対抗するための一種の絶対主義アメリカ西側体制から西側そのものの内部対立の前面化だけでなく、経済的に後進している国々の支配をめぐる新しい仕組みの模索が進んでいる。それは完成していないし完成しないかもしれない。

アメリカ一極の世界金融体制が現実の中で、日本はそれに最も大きく依存している。同時に経済的な世界支配体制をアメリカの軍事力に依存してきた現実は日本の支配階級におそるべき絶望と焦燥感をもたらしている。途上国の反乱・離反、経済的隷属支配に対する反抗に対して徹頭徹尾アメリカに依存することが可能なら日本の支配層はその選択をする可能性はあった。しかし、現実的にはアメリカの支配階級はそのことを容認していない。己の政治的地位がソビエトの消失によって相対的に遠のいた今、アメリカが日本に配慮しなければならない政治的理由は全くなくなったからだ。

日本はアメリカに経済的軍事的に従属していることがまったく変わらない今、その前提にたって、日本の経済運営を新しい方向に変更しなければならない局面になっている。一つは中国の台頭によって製造立国がほぼ絶望的になったこと。金融支配を中心とした経済体制への移行を模索している。日本国内で復古主義者が唱える新自由主義だ。これはブロック経済という軍事力のない日本にとってもっとも望んでいない世界経済体制に対する一つ模索でもあるが、世界的な新自由主義の潮流は謀略による他国へのオバマ・クリントン型の介入政策をともなって展開し、それは今は破たんし、現時点ではとん挫の真っただ中にいる。

日本の支配階級すなわち財閥・金融寡頭制は、国際金融秩序の中における日本のきわめて脆弱な状態に著しい不満と危機感を抱いている。株式相場は上がっても下がっても利益が出る。その相場を左右する最も大きな要因は学問が示す通り、「経済の集中的表現」たる「政治」であり、政治の直接の延長である「軍事」である。「政情」とよびかえてもいいかもしれない。政情によって行使される軍事力の情報こそが金融世界の生き残りを決定づける。直截な軍事行動への参加の衝動は日本の金融寡頭制=財閥にある。金融相場で動く資産、利益も損害も産業資本=製造業やサービス業が数年かけて蓄積する富を一瞬で上下させる。金融制度が実産業経済の一つの集中的時間短縮機構となって可能にするら機能している現在はレーニンの時代と比べても、新たに分析すべき主要な共産主義的課題である。

日本の戦争反対勢力は直接的戦争被害者の体験の上に立脚する反戦闘争時代からより深く思想としての反戦を貫く時代に移行しかければならない局面にある。それはおそらく後10~20年で最後の戦争直接体験勢力がその生涯を閉じる前に我々が確立し、最後の一人に伝えなければならないことでもある。

少し長くなってしまったがまだ、共産主義思想と反戦思想、ネトウヨ思想等にも言及したメモがいくつかあるがそれらは10月革命の日に再度述べたいと思う。私事が急遽突発し、今日のために書こうとしていたことの多くを書ききれなかった。

無謀な戦争を帝国主義的な他国の支配のために始めた日本の支配階級との闘いを私はやめない。差別の根源である日本の支配階級の打倒を私は目指す。その道は必ずしも日本の反戦思想を闘う同志と一緒ではないかもしれない。しかし、自分がなぜ戦争に反対する反戦思想を今もなお深めることをやめず、戦争に反対する活動を徹底的に取り組むことによってのみ、それがなぜなのかをことあることに可能な限り、反戦の友たちに偽らずに明確にしていきたい。私は共産主義者になりきれていない共産主義の信奉者だが、それでも偽りの共産主義者とは別の道を進みたい。

 - 共産主義と政治思想