「平和憲法に力を与え、すべての悪法を葬る闘いを始めよう」

   

戦前の治安維持法が共謀罪として復活した

反原発.com はこれに満身の怒りをもって抗議しこれを糾弾・弾劾する.

政府・自民党・公明党・維新の会の民主主義を破壊する3勢力はこの悪法に直接責任を持たなければならない。これは国民が承認したものではなく、この悪党たちが制度を悪用し国民を騙して強行しただけの堕法に過ぎない。

議会は堕落し、民主主義の手続きは守られなかった。委員会主義という戦後民主主義の不文律は破壊された。戦後民主着の原則であった委員会主義の本質が手続きの穴を利用した暴力によって破壊された。これは本質的に審議ではなく暴力である。

共謀罪の成立は本質的に憲政主義の危機だけではなく日本の平和と人権、民主主義の危機である。その意味で「憲政主義の危機」を主要な危機とした情勢認識は改められなければならない。客観的情勢の正しい認識は正しい闘いの唯一の条件だ。議会の封殺だけでなく民衆のありとあらゆる闘いが合法的に裁判所の令状なしに弾圧され権力が恣意的に逮捕可能な時代、好き放題できる時代への門戸が開かれた。

すなわち戦争への時代の門が開かれた。戦後民主主義は新しい段階への突入した。再び戦争を行う時代へ門が大きく開かれた。我々は今、戦前回帰に向けて大きく転落したことを自覚しなければならない。

しかし戦前の治安維持法と違うことがある。

戦前には治安維持法はそれによってはじめられた日本の帝国主義戦争によってアジア民衆2000万を殺戮し、日本国民3百数十万を悲惨な自滅に進む死の行進だったということが当時の人々は直ぐにわからなかった。誰もそうなると予想できなかった。真綿で首を絞められるように徐々に徐々に法律は改悪され、最悪の法律ができていった。しかし、戦前ですら、希代の悪法は一朝一夕で完成したわけではないのだ。

つまり、戦前とは違う。我々は闘うことができるのだ。やつらの手の内がわかっているのだから。ありとあらゆる抵抗が可能だ。

そして、我々にはまだ巨大な砦が残っている

日本国憲法だ。

我々の両親、祖父母、曾祖父母の命と引き換えに、そしてアジア2000万以上の民衆の命と引き換えに得た我々の巨大な遺産が平和と民主主義と人権の砦として今なお健在だ。

我々はありとあらゆる方法で民主主義を守る闘いを組織化しなければならない。

全民主主義勢力に呼びかけたい。議会内での闘いだけでは勝利を得ることは困難だろう。大衆運動を選挙に流し込む戦術では民主主義は守れない。今の情勢に限定すれば、議会内での抵抗の力を倍増するために選挙の闘いは必要不可欠だが、その闘い方だけでは現在の議会内の力関係の下においては「詰り手」だということをはっきりと自覚せねば勝利はできない。

軸足を街頭やネット、すなわち予想できない闘いに移さなければならない。そのことを「審議野党」は認めなければならない。混沌の道を選ばなければならないのだ。

闘争の渦中においてのつかの間の戦術議論の時間の中で審議野党に対する批判は厳しかったが野党は審議の道を選びそして敗北した。議会の闘いが始まれば民主勢力は野党批判を留保し、院内闘争を支援したことを野党は率直に理解しなければならない。審議戦術を承認したわけではないが闘いには然るべき時がある。我々は仲間が闘っているときに後ろから刺すようなことをしたくなかったから野党を支援した。しかし、審議戦術の敗北を敗北として受け入れ闘い方を変えなければ再度敗北するだろう。

しかし、一方で、審議拒否で勝利できたとは誰も断言できない。そのことを審議拒否派も自覚しなければならない。街頭の闘いへの集中には「一縷の可能性」はあったが、勝てるという保証があったわけではない。審議拒否が絶対の勝利の道だとは誰も断言できなかったのだ。つまり闘いの勝ち方が見えない中で、どのような闘い方が勝てる可能性があるのかという局面なのだ。この可能性に絵にかいたような図解的勝利の道を模索する共通一次=センターマークシート的な思考を持ち込んではならない。答えが見えない時にあたかも「見える絵」をかいて実際には敗北の道を選んではならない。思考を停止してはならない。

そこにあったのは「混沌の可能性」だけだ。その可能性とは何か?

それは予測できない可能性だ。混沌とした闘いが持つ可能性なのだ。その道に「確実」という結果が待っているわけではない。しかし、大事なことは全く可能性のない、数の暴力に対決する「特攻隊戦術」とは違う可能性があった。もちろん、議会の闘いと街頭の闘いの二者択一ではない。しかし、どこに軸足と力点を置くのかの答えは出ている。

予想できるシナリオだけが闘いの戦略だと思ってはならない。議会の中の闘いは続けなければならない。しかし全野党市民は街頭の闘いを巨大化するために何が必要なのかを真剣に考える日がやってきた。つまり、こうすれば勝てるという道があったわけではない。この混沌の道を我々は進む覚悟をしなければならない。泥沼と藪をかき分ける山道にはいって闘うのだ。

そのことを民主主義勢力は率直に直視し受け入れることが大切だ。

議会内での闘いは野党の多くの議員が最後の局面で「数の力の前に無力である」と懺悔したことを野党院内勢力は口だけでなく実際に厳しく総括し新しい闘いの戦略を検討することが野党の義務だろう。あいまいにすることは絶対に許されない。

同時に団結する我々は議会の中で最後まで闘った野党にエールとねぎらいの言葉を送らなければならない。我々は同じ闘いの闘志をもっているのだ。決して屈服せず闘ったことを我々日本の全民主主義勢力は誇りにせねばならない。日本の議会の歴史に燦然と輝くその闘いを我々の歴史には記録しなければならない。

そして、我々の団結こそが力であり、団結によってのみ勝利が見えるだろう。そう我々市民は野党とより一層結びつき、街頭で選挙でネット上であらゆる闘いを進めなければならない。

すなわち、民主主義のための闘いを権力が予想できない「街頭」や「選挙」や「ネット」にも広げそのような闘いに力を集中しなければならないのだ。つまり人と人のつながりの本質を強化する運動だ。

共謀罪が成立した今、昨日よりも不利な条件となるが、それは昨日と本質的に変わったわけではない。これまでも我々はありとあらゆる監視と弾圧を受けてきたではないか。

戦前も彼らは一気に弾圧ができたわけではない。
そして民衆もそれが最悪の法律になるのかどうかを予想できなかったが、我々はそれがすでに分かっている。だからこそ我らは闘えば勝てるのだ

闘いの合言葉は「平和憲法を守れ」だろう。そのためのありとあらゆる闘いを組織しよう。そして、平和憲法に民衆の力が結合することによってそれが持つ本質的に巨大な威力を復活させ、戦争法、秘密保護法、テロ等準備罪(共謀罪)を自民・公明・維新の三位一体権力とともに葬り去るのだ。

連帯しよう!闘おう!
我々は敗北しない!勝利は我らのもの!

オラシャヤーン!
ガウェーツー!アマンドラ!
ベンセレーモス!

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